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生きる


第127回直木賞受賞作です。

時代は、江戸時代初期でしょう。関ケ原の戦いで敗軍となり浪人となった父が、
ようやく食禄を得た十一万石の主家に自らも仕え、馬回り組五百石の家柄となった男の生き様を描いています。
と言っても彼(又右衛門)の成り上がっていく物語ではなく、主君の死に対し、追腹を切るか切らぬか、
その選択の結果に如何に向き合って”生きる”かを描いた作品です。
登場する人物の心の機微に触れながら、自分の選択を周りの誰もが認めてくれない
という怒りと諦めに抱かれながらも”生きる”ことに気づいていく男の心情が、丹念にそして誇らしく描かれています。
主人公は、自ら望んでその生き方(作中では、家老の頼みで、主君の追腹を切らない)を選択したわけではない。
その選択結果を淡々と、自分に説くようにして生きているように思える。
しかし周囲の目は冷たく彼の生き方に理解を寄せるものは、家族にさえもいなくなってしまう。
その悲観的な状況に追い込まれてから、自らの気づきで再生していく様を描いた作品後半の描写は、
人間の持つ”生きる”力を誇り高いものとして称賛していると感じます。

久しぶりに心揺さぶられた文章。
・・・やがて「いきているのがつまらなくてならない。生きる目当てが霞んでしまうと、
強く生きてゆこうという意志もどこかへ消えてしまった。あるいはこのまま藪のかせ枝のように、
ただかれてゆくのだろう。」という心情に陥っていきます。
誰からも”あなたの判断は間違っていないですよ”と支えて貰えない人間の行き着く心境として必然のように思えてしまいます。
そしてついに暗然たる気持ちは彼を覆い、毎日を無為に過ごすようになる。
やがてその無為に生きる日々にも飽きてきて、
自分にこの選択を迫った元凶である国家老への書状を認め始めるのであった。
「どうせ恥辱に塗れたまま死ぬのなら、恨みつらみを吐き出してやろうと思ったのである」
「ところがいざ恨みを綴り出すと、どれもこれも力を出せば克服できたはずのものに思われ、
書けば書くほど泣き言を並べているような気がした。家中の誹謗中傷は容易に予測されたことだし、
自信さえあればこれほど翻弄されずに済んだのではないか。」
・・・「死んだ小野寺郡蔵(追腹を切らなかった同僚で断食して果てた)の分まで書いてやるつもりが、
胸のうちを文字にしてみると、恨みの正体が見えてきて、その薄さに気付かされたのだった。
長い間、評定を聞いたままに書き留めることに馴れてしまい、
中身の重さや真意について考えないことが癖になっていたのかもしれない。」
(こんなことでわしは苦しんでいたのか)
何もせず、ただ恐れ立ち尽くし、嵐が去るのを待っていただけではないか。
吐けるだけ吐き出し、自分の不甲斐なさを差し引いてみると、
あとに残ったのは不当な扱いをする世間への反骨と、そういう事態を放置している家老や重職に対する正当な不満だった。
そのことに驚き、後悔もしたが、又右衛門は何よりも闇の中に一条の光がさしたように思った。
彼は三日ほどかけて書いた手紙を破棄した。

この経験を経て、彼(又右衛門)は、再び登城し役職を務めだします。

「僅かなことで人は変われるものだと、やがて他人事のような感想がもてたとき、
又右衛門はようやく本来の尊厳を取り戻したらしい自分を感じた。
それが当然のように毅然として白眼を白眼で見返し、青眼を向けてくるものがあれば青眼で応じるという、
感情の生き物としてごく普通のことができるようになったのである。

その後、彼は、自分に面と向かって蔑みを込めて接するものを睨み返し、
「おぬしに人間の値打ちがわかるか」と胸の中で言い返えすことができた。

この男は、孤独のなのに矜持を抱いて生きているといえるのか?
辿り着く境地は、諦観の先にある微かな誇らしさか?

この物語を読んで、この主人公と対局的な主人公を描いた作品を思い起こしました。
北方謙三の「一人群せず」の光武利之です。彼は、「自らを持って由とする」という自由を矜持と共に生き抜いた。
どちらの主人公にも共感を持ちます。男として。

おわり

テーマ : 読んだ本の紹介
ジャンル : 本・雑誌

プロフィール

トホトホWALKER

Author:トホトホWALKER
性別 男性(家族有)

職業 サラリーマン
居住地 西日本の地方都市

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