『幸せになる勇気』


青年(若い教育者)と哲学者の会話形式を、前作(嫌われる勇気)から同様でとっています。

青年が、前回の哲学者との出会いで学んだアドラー心理学を、教育の場で実践したが、全くうまくいかず、
またしてもアドラー心理学を否定するために、哲学者と会話を始めるという設定です。

アドラー心理学において、幸福とは、その場に留まっていて享受できるものではない。
踏み出した道を歩み続けなければならない。
そのために「人生における最大の選択」をすべきであり、その選択とは「愛」だという。

これが、アドラーが辿り着いた結論だと書かれています。

この結論ゆえに、アドラー心理学は、宗教ではないのか?
という疑問から哲学者と若い教育者の会話が始まります。
なぜ宗教だといわれるのか?
若い教育者は、アドラーは、まるでキリスト教が説く隣人愛のような甘ったるい説教をしていると詰め寄ります。
事実、アドラーが「共同体感覚」という概念を語り始めた時、「こんなものは科学でない」といって、
多くの仲間がアドラーのもとを離れてしまいました。

しかし、哲学者はこう答えます。
すべてを知っているといって、知ること考えることをやめてしまうとそれは「宗教」へ足を踏み入れている。
しかし、自分は何も知らないということを知って考え続けることが哲学であり、アドラー心理学にも言えることだと説明しています。
この考え方は「無知の知」と呼ばれる概念です。

この後、本文の中で展開されていく青年の主張は、きわめて一般的で正論であると思え、共感すら覚える部分があります。
しかしそれらに対する哲学者のアドラー心理学に基づく答えは、人間、あるいは人間関係の本質で核心的な内容です。
テーマが教育であり、私が所属する組織の中で担当している仕事である点からも、
様々な気づきがありました。

●教育の目標は「自立」である。
教育とは「介入」ではなく、自立に向けた「援助」だと説いています。これはアドラー心理学の根幹である
「課題の分離」によるものだと思います。これは誰の課題なのか?「自分の課題」と「他者の課題」に分離する。
承認欲求さえも「他者の課題」であり、他者の人生を歩むことになるとしています。
「自立」とは、自らの手で自らの価値を決定することである。一方、自らの価値を他者に決めてもらおうとする態度、
すなわち承認欲求は、ただの「依存」であると。

●教育者は孤独な存在です。
誰からもほめてもらえず、労をねぎらわれることもなく、みな自力で巣立っていく。感謝すらされることのないままに。
この孤独を受け入れよ。生徒たちからの感謝を期待するのではなく、「自立」という大きな目標に自分は貢献できたのだ、
という貢献感を持つ。この貢献感の中に幸せを見出す。それしかないと。そして、幸福の本質は「貢献感」なのだと。
もし「あなたのおかげで」という言葉を待っているのなら、あなたは、彼らの「自立」を妨げていると。
<この考え方は、教育に携わっているものなら必ず溺れてしまう自己承認欲求を、真向否定しています。
そこまで言われることはないのでは?とさえ思います>

しかし、哲学者はこう続けます。
自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものなのだと教えること。
そして、決めるにあたって必要な材料ーたとえば知識や経験ーがあれば、それを提供していくこと。
それが教育者のあるべき姿なのだと。
<自己責任を負えるということは、自立していると言い換えれるでしょう。私たちの組織では「自律」という字を使います。
ただ、組織の中においては、自己責任で行動できないこともあるので、そこをはき違えないで指導をしなければなりません。
個人的には、この考え方が昇華したものが、「自由」だと考えます。
自らを由とする生き方をすることに他ならないと考えます。

●メサイヤ・コンプレックスについて
哲学者は、悩める青年にこう言います「あなたが教育者の道を選んだのは、子供たちを救いたかったからではない。
子供たちを救うことを通じて、自分が救われたかったのです」他者を救うことによって、自らが救われようとする。
自らを一種の救世主に仕立てることによって、自らの価値を実感しようとする。これは、劣等感を払拭できない人が、
しばしば陥る優越コンプレックスの一形態であり、一般に「メサイヤ・コンプレックス」と呼ばれています。
メサイヤ、すなわち他者の救世主たらんとする心的な倒錯です」
とても手厳しい指摘です。私自身に向けられていて、胸にぐさりと刺さる言葉です。救世主になっているとは思わないけど、
「ええことしてる」という感覚は、それなりにあると思います。認められたい承認欲求と相まっているので、やっかいかもしれません。
しかし、その”やっかいなもの”を抱えて生きていくことも自分自身の人生だろうと思います。
この”やっかいなもの”に対する認識は、全く別の本「ふがいない僕は空を見た」(窪美澄)を読んだ時に生まれてきました。
その本の中に、”やっかいなもの”についてこう書かれています。
誰にも話すことができない、心の中にあるもの。それは灰色掛かった煙幕の中に、確かに蠢く”恐ろしいもの”や”氷のように
怜悧なもの”であり、決して温もりを持たない。また”真新しい薄紙のエッジが引き起こす痛み”のようでもある。
捨て去ろうとしても決して心の中から無くすことができなくて、今日まで、自分が養い続けた「やっかいなもの」です。
それを捨て去ることは、誰にもできない。ただただ、ともに息苦しく感じながらも、生きていくしかないということ。
これを読んで、自分は、まだまだ”やっかいなもの”と生きていくんだと思いました。

●私であることに価値を置く
他者からの承認を求めるのではなく、自らの意思で、自らを承認するしかない。
「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと。それは依存です。一方「わたし」の価値を自らが決定すること。
これを「自立」と呼ぶ。それができないのは「普通であることの勇気」が足りていない。
この考えが昇華したものが「フロー」状態と呼ばれるのかもしれません。

このアドラー心理学は、他の心理学に比べて難解といわれています。
昨今注目されていますが、今まであんまり耳にしなかったです。
私自身も他の心理学と比較する知見はありませんが、この本を読んだだけでも、
体系的に理解し腹落ちさせること無理だと感じます。知識として保有することは可能な気がしますが、
実践し人生の中に埋め込むのは不可能な気がします。
知識としての域を出ないように思います。しかし、色んな切り口で、私自身の「コンプレックス」を突いてきます。
自分にシニカルな冷笑を浴びせつつ、大きく人生の軌道を逸脱しない抑止的な”考え方”として
”そばに”おいておきたいと思いました。

本は、5つのパートで構成されています。
第一部「悪いあの人、かわいそうなわたし」
第二部「なぜ「賞罰」を否定するのか」
第三部「競争原理から協力原理へ」
第四部「与えよ、さらば与えられん」
第五部「愛する人生を選べ」

この本は、2016年4月に、私の誕生日プレゼントの一つとして、職場の女性たちから頂いたものです。
大変遅くなったのですが、読み終えた感想をまとめました。
いつも、お気遣いいただきありがとうございます。

2016年、56冊目です。

テーマ : 読んだ本の紹介
ジャンル : 本・雑誌

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Author:トホトホWALKER
性別 男性(家族有)

職業 サラリーマン
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